2013年10月4日金曜日

物言わぬ人

このタイトルを見て、何の話だろう?と思ったかもしれない。別に死んでいる人とか、どうのこうのということではなく、文字通り「ものを言わない人」のことについての所感である。

同じマンションに住んでいて、エレベータに二人きりになるのに、何も言わない。私の所属する学科の学生で、朝すれ違うのに、うつむいて気づかないふりをして通り過ぎる。いや、うつむかなくても無視される。学生実験などのグループ学習で、朝、部屋に来る決まったメンバーが、後から入ってきて何も言わず座る。

非常に居心地が悪いのだが、相手は何も思わないのだろうか。私は、学生以外の人には最終的にはこちらから挨拶をするので、無言のまま通り過ぎることはまずないが、まあ、社会通念からして、あちらから挨拶があってもいいと思うような場合が多い。たとえば子供。子供は、こちらから挨拶しても無言の場合が結構ある。最近の子供は、同じマンションであっても、よその人とは口をきかないように親が指導しているのだろうか。これは、勘ぐるわけではないが、小中学校で校門指導と言って、先生が愛想よく挨拶をして、子供たちはそれを聞き流して通るというような光景を見ることがあるがその影響はないのか。街角で、不特定多数に挨拶を大声で掛けるのの影響ではないのか。

学生とすれ違うときは、こちらからいうのも癪なので相手から言ってくれるのを期待するが、まあ20%以下というところだろう。見ていると,学生どうしでもほとんどしていない。その証拠に、ゼミ配属された学生同士、最初に集まった日に、お互いに知っているかと言えば、半分以上の学生が、話したことはないという。

私が学生時代は、同じ学科のものどうし、話をしたことがない学生はまずいなかった。先生とすれ違う時は、たいてい「おはようございます」、「こんにちは」と言った。気づかない(ふりかもしれないが)先生の場合も、頭を下げて会釈した。本当に気づかなかった時以外は挨拶をしたものである。

どうも挨拶だけではなく、あらゆる場面で他人と話をすることができない人が多いように思える。 一声掛ければ穏やかに済むことが、声を出さないばかりに、とんでもない争いになることも多い。

これはどこの国でもそうか?というと、そうではない。アジアの国、シンガポールや香港などでは同じような感じを受けることも多いが、ヨーロッパでは違った。私が住んでいたオーストリアでは、エレベータや階段などですれ違う時には必ず挨拶が飛んできた。狭い通路で、お互いにものも言わずにすれ違うということはあり得ない。そういう文化からか、たとえば、行列の最後尾に並ぶときやエスカレータに乗るときなど、他に同じくらいの距離でそこに向かっている人がいたら譲るのが普通である。日本では、足を速めるのが普通。ちょっと譲って、「どうぞ」とでも言って譲ったら、喜ばれるのに。

2013年9月21日土曜日

本の処分

急に思い立って、自宅の書架の本をかなり処分した。作り付けの壁面書架が床から天井まで、横幅6mくらいある。そのうちの2mくらいが私の本棚なのだが、最近置く場所がなくなり、文庫本が奥と手前の2列になり、さらに本の上に寝かせて置いた本もあったりしていたので、地震でもあったら危ないなあと危機感を覚えていたのである。
捨てることには快感があり、捨てだしたら調子に乗ってきて、この際全部捨てようかとも思ったが、何となく未練がある本もあり、また、買ったのに読んでいない本もかなりあるので、そうもいかない。結局、150冊程しか捨てることができなかった。捨てる本にはパターンがある。それは、
  • ハウツーもの。あまり買わないが、週末社長とか100億貯めるとか、そういう本が少しあった。
  • 技術的に中途半端な解説本。こういう本は電車の中で読むだけである。
  • 逆に、難しすぎて、今後も読まないと思う本。オートポエシスなんて本があった。
  • コンピュータ関係の本。ほとんど捨てた。 既に知識となったものと、今後も知識にはならないと確信できるものの2通りある。
そして、残った本は、
  • 気に入った単行本。村上春樹、百田尚樹、三浦しをん、林望、藤原正彦等が残っている。
  • 文学書。夏目漱石、森鴎外などは捨てることが出来ない。
  • 読んで面白かった新書。最近の新書はたいてい残した。
  • 一度読んでから捨てようと思った本。これが意外に多く、未練がましく残っている。次の整理の時に捨てることができるよう、それまでに読みたい。

2013年7月6日土曜日

変な日本語

私:・・してもいいですか?
A:大丈夫です。
最近よく聞くフレーズである。なぜ「いいですか?」の答えが「大丈夫です」なのか、理解が難しい。
そして、往々にして、この答えは少しカチンと来る。それが何故なのか、自己分析してみる。

まず、Qのほうの、いいですか?の問いは、私がやることをあなたは認めますか?という質問である。そして、たいていは聞いた相手が何か勝手なことをやっていて、注意を含んだ意味を持っている。
たとえば、新幹線の席の上に荷物を置いているところに、「座っていいですか?」「空いていますか?」と聞くと、「大丈夫です」という答えが返ってくることがある。てめえが荷物を置いているから聞いているんだ、何故わからん?という気持ちがこちらにはある。ものも言わずにぶすっとした顔で荷物をのける者も多いから、何か言葉が返ってくればよしとせねばならない。
今日は、うちのマンションの共同展望風呂の脱衣所の扇風機を、若い人が自分だけに向けて回した(私がそばにいるのに)ので、「回して(首を振らせて)いいですか?」と言ったら、「大丈夫です」という答えが返ってきた。
本当は、こちらが期待した言葉は「あ、すみません」とか、「どうぞ」といった言葉である。大丈夫ですとは、首を振らせても自分は大丈夫ですということだろう。

どちらも、答える者が自分中心にものを考えていることが問題である。そもそも、てめえのやっていることにこちらは注意をしたいのを婉曲に言っているのだが、それに気づいている様子はない。そして、自分が大丈夫と答えてくる。この言葉を聞くと、中学校、高校と、自分のことをみな大人がやってくれて、まるでお城の王子様、お姫様のような生活をしてきたことが想像される。もっと、注意されることに敏感になってほしい。

2013年4月28日日曜日

景気とゴミ

今の政府、および多くの国民は、景気を良くするには、お金の循環をよくする、つまり、物を買わせることが必要と考えているようだ。
どんどん物を買えという。それによって、企業が潤い、景気が良くなるという。

でもね、日本の家は、既に物であふれているんですよ。古くなった電化製品を新しいものに買い換えようとおもったら、その都度、古い物を処分しなければなりません。私の住んでいる岡山市の例でいうと、ほとんどの電化製品は粗大ゴミとして出さなければならず、次のステップを踏んで捨てることが必要なんです。
1.市役所に電話をして、何をゴミとして出したいのか、説明をして、ゴミ出しの金額を聞く。そのときに、ゴミを出す日を打ち合わせる。
2.コンビニなどに行って、言われた金額のゴミ出し券を購入する。
3.打ち合わせた日の朝に、そのゴミ出し券(シール)をゴミに貼って、ゴミ捨て場に出す。
という手順です。

面倒くさいということと、お金が掛かるということがあって、なるべくしたくありません。いくら新しい物が安くても、古い物を出すために500円も1000円もかかっては、その気持ちも失せるというものです。

かくして、家の中は古い電化製品が山積みになり、新しい物は買いたくても買わずに我慢するということになります。

ものを買わせようと思うのなら、粗大ゴミの収集を無料でサービスしたらどうでしょうか。そうすれば、おそらくものすごくたくさんの家庭内に山積しているゴミがどっと出され、すっきりすると同時に新しいものがたくさん売れるでしょう。

買えと言うのをやめて、ゴミをどんどん引き取る。これが最も効率的な景気対策になります。
 
ちょっと山にハイキングに行ってみると、山の中に捨てられたテレビや冷蔵庫などがまさに「ゴミの山」になっているが、こうした回収をすれば、減らすことが出来るでしょう。ゴミを集めることにお金を出させるとこういうことになります。しっかり消費税を取って、税金で処理すべきと考えます。

ついでに一言。
普通ゴミについては、市はゴミを減らせと強くおっしゃる。また、駅や公園など、ゴミがたくさん出てくるはずのところにゴミ箱がない。かくして、物の陰やベンチの下など、至る所にゴミが捨てられる。こんなことが「正常」ですか???公共の場所のゴミ回収をやめるなんぞは、行政の怠慢としか思えない。「いや、やりたくても回収費用がなくてね」という声が聞こえそうである。文明国であれば、そうしたことが出来ないほど行政がお金に困ってはいけないと思う。その理由は、必要な税金をきちんと徴収していないからである。

 ゴミを減らすことは強く市民に要請されていることである。
極力、ゴミではなく、資源にする資源化ゴミにするということに努力を求められることは理解できる。これは当然そうすべきだが、誰でも、それが容易にできるように、行政としてできることがもっとあるのではないかと思う。回収方法に工夫が出来るのではないかということ。
しかし、それだけではないはず。ゴミを減らすためには、現在のゴミの内訳をもっと分析して、原因を封じ込めることをしないと抜本的に改良できない。おそらく、食品の包装がかなりの部分を占めているものと思われる。そうであれば、食品の包装の簡素化や禁止について、行政から規制や指導をしてほしい。消費者が一旦手元に来た包装紙を資源化することは容易ではない。容易なことは、唯一、「買わない」ということでしょう。いいんですか?安倍総理。

 片や、景気を良くせよと言いながら、ゴミの問題に何の工夫もしないというのは、大いなる矛盾であることを言いたかった。

2013年2月17日日曜日

「特別なこと」の普通

卒論が終わったが、所期の目的が達成出来なかった学生は、決まって、「締め切り直前になって病気で寝込んだ」、「実験装置がうまく動かなくなった」、「天気が悪くてデータが取れなかった」などという。それぞれケースバイケースではあるが、こういうことを「危機管理が出来ていない」という。何が起こるかわからないのだから、あらかじめ予想できない。ただ、対処方法は1つ、何かが起こっても対処できるだけの時間を見て仕事を進めれば、たいていの場合、間に合う。

道路工事、いつもやっている。昼間の時間帯、片側2車線のうちの1車線は、かなりの部分が、工事中で、きちんと2車線分使える道路は非常に少ない。
道路工事は迷惑なものであるが、それが終われば、快適に使えるようになるのだから、そのときだけは我慢してよ、という暗黙の了解が社会にある(かのように堂々と工事をやっている)。たとえば、工事を1ヶ月で行ってその後5年間きれいに使えるのであれば、工事もやむなしということになるのかなと思う。しかし、そういう割合で工事を行う区間がたくさんあれば、長い道の中では、どの道路も、かなりの割合で工事をしていることになる。結果的に、道路を少し進めば工事という状態が常態化している。片側実質1車線で足りるのか?足りないのであれば、道路の設計は基本的に片側3車線くらいいるのではないか?

会議で長々と議論する。そのことを決めておけば、未来永劫、そのルールが使えるのなら、それもよかろう。しかし、そう思いながらほぼ同じ話を毎年行う。なぜなら、メンバーが少しずつでも違うし、ものごとは、毎回決め直さなければならないというのは、たいていの集団のルールであるからである。そうであれば、毎年議論することを前提に、その年だけのことを考えて決めればたいていは問題はないはずである。起こる可能性がほとんどないことまで議論するよりも、我々はしなければならないことがたくさんある。